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「少年少女のための?よくわかる昭和ラテン歌謡史」

聞いて驚かないように!昭和30年初頭、神宮球場や東京体育館などで行われたマンボ大会には何千人もの若者が押し寄せ情熱のリズムで踊りまくったという記録がある。戦争末期、強制的に学生達が徴兵され学徒出陣の大パレードを必死の覚悟でおこなった神宮球場で大マンボ大会!これが戦争にボロ負けして焼け野原になった東京のたった10年後の姿。10年ひと昔!日本人て本当に凄いぞ、、、とつくずく思う今日この頃です。

さて、人類滅亡まであと何年、この世紀末の日本で再びラテン音楽がお盛んなようだ。思えば私自身も10年程前に昭和ラテン音楽の復興を目ざして騒ぎまくっていた事があった。あの頃は本当にラテン不毛時代だったけれど、現在は普通にラテン系音楽を耳にする機会が多いしレコードやCDも手に入れやすくなっている。やはり「日本人はラテン好き」という私の考えは正しかった。しかし歴史の長いラテン音楽、新旧入り乱れての復刻やマスコミの企画見え見えの作り出されたブームなどで情報もやや混乱ぎみ。ここでひとつラテン音楽史をふまえつつ、未だに解明されていない日本独自に発展していった昭和ラテン歌謡について振り返ってみたい、、、ってそんな大袈裟なもんじゃないけど、とにかくこの辺の音楽って面白いからね。今で言うハッピーで大馬鹿でチャームなダンスミュージックなんだから(ちょっと違うかも!)

[その1]ペレス プラドとマンボな人達

伝統的なラテン音楽とアメリカのジャズの混血児、それがマンボ。生まれはキューバの大歓楽街ハバナのナイトクラブやダンスホール、それがマンボ。このヤクザなダンス音楽はペレス プラドという一人のメキシコ人によって全米のヒットチャートをにぎわせるポピュラー音楽へと発展。戦後のアメリカ文化影響下にあった昭和20年代末の日本でも空前の大ヒット、ロックンロールが登場する4〜5年前の出来ごとです。この情熱のダンス音楽は若者を中心に圧倒的支持を受け、当然日本独自のラテン音楽も生まれていった。最初はペレス プラド楽団のコピーからスタート、ラテンパーッカッションも写真でしか見たことがないというミュージシャンはコンガやボンゴが風呂桶に似ていることから桶屋さんで注文して楽器を作ったという、今では信じられない状況だった(これ本当のお話)。それでも見砂直照と東京キューバンボーイズ、有馬徹とノーチェクバーナといった日本でも一流のラテン系フルバンドが登場、歌謡界もこのブームに便乗していった。たとえば当時人気絶頂の3人娘、美空ひばりがオリジナル「お祭りマンボ」でヒットを飛ばせば、江利チエミ、雪村いずみらもラテンナンバーをカバー、昭和ラテン歌謡花盛りとなる。昭和31年にはペレス プラド楽団が来日し日本は空前のマンボブームとなりマンボ歌謡はさらに勢いを増す。その多くはカバーナンバーでしたが中にはトニー谷「さいざんすマンボ」高島忠夫「マンボ息子」など今でも立派に通用(?)大笑いできるマンボな名曲も多いので要チェック。その後ロックンロールの誕生によって若者はもっと激しいリズムを求めマンボは姿を消し始めるのだけど、陽気なラテンリズムは60年代初頭までポピュラー音楽の中でしぶとく生き続けることとなります。

[その2]ニューリズムの台頭

ロックンロール誕生とエルビス プレスリーのデビュー。日本でもロカビリーという新しい音楽は輸入されヒットしますが、日本人のロカビリー歌手達の活躍はジャズ喫茶(今でいうライブハウスね)が中心でその人気はある程度限られていました。テレビの普及と共にティーンエイジャーの音楽が全国に広がりアイドル的人気歌手が騒がれ始めた頃は(映画『アメリカングラフティ』の台詞で言えば)「ロックンロールは死んで」ポップスの時代へと移行していたのです。アメリカ生まれのヒット曲が黒船のように来襲、いわゆるジジババが泣いて喜ぶカバーポップス全盛期到来。そんな中ラテンリズムはちゃっかりと残っていきました。しかもタイトルだけ見てもチャチャチャは「チャチャで飲みましょう」パチャンガは「パッパのパチャンガ」スクスクは「スクスク スキ」など意味不明な日本的解釈で無謀な作品と化していきました。そして昭和35年についに和製ラテンリズム「ドドンパ」(戦後ジャジャンボって言う和製ラテンも有りましたけど)が誕生、渡辺まりの「東京ドドンパ娘」は空前の大ヒットとなります。日本のナイトクラブで演奏していたフィリピン バンドが考案したリズムと言われていますが、その後こぞって日本人が録音しドドンパ はツイストと同じくらい有名なダンス音楽として日本中を沸せていったのです。この頃、日本に到来したその他のラテン系リズムはロカンボ、チュンガ、コシコシ、ボゴソン、アシアシ、バイヨンなどなど、そしてボッサノバ、タムレ、スカなどスペイン/キューバ系以外の南国リズムも人気を呼んでいます。またジャズミュージシャン達の間でもアフロ キューバン ジャズを演奏していた人達やマーティン デニーなどに影響を受けたエキゾティック スタイルのグループも居たという話です。

[その3]トリオ ロス パンチョスとムードコーラス

メキシコ出身のコーラス3人組それがパンチョス、そのアコーステックサウンドと美しい裏声を使ったコーラスに日本人は「ベッサメ ムーチョ」とため息をついた。情熱のダンス音楽がマンボならパンチョスは魅惑のムード音楽。これがその後の日本のムード歌謡の発展に大きな影響を与えるなど誰が想像しえたであろうか?美しい青空やサボテンが並ぶメキシコの砂漠を連想するパンチョスのサウンドはいつの間にかブランディーグラス片手の大人の社交場、悩ましいスポットライト浴びるステージの音楽へと変化していった。若者がロックやポップス中心になっていった頃、ラテン音楽は独自の大人の世界を作りあげていったのである。それはそのまま歌謡曲の世界にフィードバック、数多くの名曲が生まれていった。「ウナセラディ東京」「赤坂の夜は更けて」「銀座の恋の物語」、、、。またコーラスグループではないがアントニオ古賀という歌手がいた(まだ、いる)。坂本スミ子、アイ ジョージ(2人とも勿論まだいる)と並んで日本のラテン シンガー(彼の場合はギタリストとしても)の草分け的存在だが、アントニオというイカス名前に古賀と続くところがミソ。彼の登場からしてムード歌謡の出現を予測していたようなものである。古賀とは勿論、大作曲家古賀正夫先生、アントニオ古賀は弟子であった。演歌独自の生ギターのイントロはパンチョスのギターサウンドとミックスされ、その後の歌謡曲のイントロの定番のようになっていったのである、、、と私は思っている。

ここでひと休み、クイズの時間です。 以下の曲のうち実際には存在しない曲が1曲ずつあります、さてその曲はどれでしょう?(答は最後に)
第1問
  1、江戸っ子マンボ 2、ちゃんばらマンボ  3、ちょんまげマンボ
  4、プロレスマンボ 5、エッサッサ マンボ 6、丁稚マンボNoカックン
  7、マンボNo100   8、そばマンボ     9、ラーメンマンボ
第2問
  1、銀座マンボ   2、銀座でドドンパ 3、銀座フラメンコ
  4、銀座ジャングル娘5、銀座のハワイ  6、銀座パチャンガ通り
 7、銀座でツイスト 8、サンバで銀座  9、ブーガルー ダウン ザ銀座

’60年代中期、ロックがティーンエイジャーだった頃、ジャズが大橋巨泉でソウルは横浜だった。そしてマンボはシャ ルイ ダンスだった、、分るかな?分んねえだろうな、、かは別としてとにかく、ビートルズ世界征服下ではシンンプルでハードなエレキサウンド以外の音楽は全て流行遅れとされた時代がヤァヤァヤァとやって来た。世界を支配したアメリカのラテン界でもマンボやチャチャチャは姿を消し始めていました。しかしラティーノたちの若い熱い血は新しい音楽が生み出す。それは地域的ではありましたがジャズやソウルさらには当時人気だったゴーゴースタイルのロックとの融合、今で言うレア グルーブ物。またポップス界でもメキシコのマリアッチを現代風にしたハンサムなオヤジ、ハープ アルハートの「アメリアッチ」、ボサノバやサンバにクールなビートをのせたタートルネックがいかすオヤジ、セルジオ メンデスなどがサイケデリック サウンドやハードロックの隙間を埋めるように登場。大阪万博に燃える日本でもその影響を受けつつ変型した形で歌謡界にレアなラテン歌謡が生まれていきます。

[その4]青春リズム歌謡

エレキに乗れないポップス系人気歌手達が老後の心配を始めた頃、歌謡界では、そんな音楽的変化を意識する事なく相変わらず日本のメロディのバックに無理矢理に海外の新しいサウンドを取り入れる作業を楽し気に繰り返していた。しかしそんな中にラテンリズムを取り入れた傑作もちゃっかり生まれている。その代表が当時歌謡界のスーパースター橋幸夫の作品。スイム、サーフィン、ホットロッドに続く’66年のニューリズム歌謡はアメリカでハープ アルハートがヒットさせていたばかりのアメリアッチサウンドを取り入れた『恋と涙の太陽』。同レコード会社の三田明も『恋のアメリアッチ』をヒットさせ、エレキとアメリアッチをミックスしたこの2曲は日本ラテン歌謡史に輝く傑作、ドラムのキックの音がこんなにデカイ歌謡曲は私、他に知りません。そして翌’67年、メキシコオリンピックに便乗して橋幸夫はオリジナル ラテン リズム「恋のメキシカンロック」という傑作を発表。周囲にいるグループサウンドの長髪野郎に囲まれた歌謡界でただ一人、角刈り頭で踊りながら歌うこの曲は大ヒット。翌年はグループサウンズ全盛期、中には当時アメリカで話題となっていたラテン ビート「ブーガルー」を録音したグループもいた。しかしファズトーンがバキバキのガレージ系ラテン ソウル「恋のシャロック/中尾ミエ」や、スキャットもキュート、中古盤市場1万円は下らないシングル盤「バザズ天国/キューピッツ」などのレアなラテン系歌謡曲の方が今聴くと面白いのは不思議。

[その5]ボサノヴァ歌謡の昼と夜

サンバやボサノヴァといったブラジル音楽はその昔にラテンリズムの一つとして紹介済みだったが、昭和40年代に入り急激に日本の音楽界に浸透し始める。ひとつは最初(サンタナ登場以前)ラテン ロックと呼ばれていたセルジオ メンデスの人気、帰国した渡辺貞夫によるジャズ界からのボサノヴァへのアプローチがあるのかもしれない。実際に私がボサノバ歌謡を初めて意識した曲「白い波/ヒデとユキ(ヒデは後にヒデとロザンナを結成)」は曲も演奏もナベサダのグループ。そして、いずみたくや浜口庫ノ助ら作曲家がこぞってパヤパヤのスキャット入りのボサノヴァ歌謡を書き始めたのである。「恋のカローラ/クラウディア」「恋はオールデイ アンド オールナイト/佐良直美」「月影のランデブー/麻理圭子」あたりは是非チェック、そうそう超キュートな「ピーコック ベイビー/大原麗子」も忘れられません。この手のさわやかなサウンドは後のソフトロック風グループやニューミュージックへと引き継がれていきます。しかし、ここでまたボサノヴァを夜の歌謡界に引き込んでい云った人たちもいました。さわやかなスキャットはHな喘ぎ声に変わり日活ロマンポルノのBGM的サウンドが生まれ、また相変わらずブランディーグラスがよく似合うムード歌謡コーラスの人たちもボサノヴァに手を出し、独自の世界を作りだしていったのです。こうして日本でのボサノヴァ歌謡は昼と夜の顔を持つ多様な音楽が形成されていきました。

マンボブームから約20年、日本の歌謡界にはキューバ/プエルトリコ、またはブラジル系のサウンドとは似て非なる独自の解釈によるラテン歌謡が確立。’70年代が始める頃にはあえてラテン風などと意識することなく自然に歌謡曲のリズムのひとつとして風化していった。サンタナの登場で本格的ラテン ロックが生まれた時もサンタナを意識することなく、ブラスロックとラテンロックをミックスしたような「真夏の夜のサンバ/和田アキ子」や「夏のせいかしら/夏木マリ」、強力なサンバビートの「燃えつきそうよ/山本リンダ」「お嫁サンバ/郷ひろみ」など新しい歌謡曲が続々とヒットしている。その頃洋楽としてのラテン音楽はサルサの登場により地域的コミニティーの音楽へと移行、日本でも限られた人々の音楽へと変わっていったのである。これがポピュラー音楽界におけるラテン不毛時代の始まりでもあった、つらい時代だった。

しかしラテン音楽の復活は意外な処から始まった。80年代初頭にスカブームがロンドンで起こったが、今度はルーツ音楽として、また踊れる音楽としてクラブDJ達の手によってジャズやラテンが90年代に復活し始めていったのである。そして現在、私がクラブでDJをしていると自分の子供のような年頃の若者に「ねえ、ちょっとラテンかけてくれないっすか!」などと云われる時代となったのである、めでたしめでたし。

最後にラテン音楽がその昔アメリカで大ヒットした理由の一つに当時南米諸国に米国資本主義を育てる為に盛んに文化交流した政治的企みがあったらしい。おかげでアメリカ目指したこの日本でもラテンブームが起きたわけだけど、遠い未来そんな事が忘れ去られてもラテン音楽の情熱的リズムと哀愁の歌声はいつまでも人々を楽しませてくれるに違いないでしょう、なんてね。

コモエスタ八重樫
(クイズ答第1問9第2問8)

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